理想のあの娘、宇宙の子

完全に個人的なものですので、不快に感じる場合があります。「そもそも匿名な時点で、論としての効力はない」という前提の元、主に未来の自分(そして同志)のために書いているものです。攻撃・思想の押し付けをする意図はありません。

『ふにゃふにゃの板チョコが、べっとりとした大気と絡み、怠惰なる官能の胃袋に呑まれたようである。』

 「胸が小さいから という理由でフラれた」という体験談を、巨乳化サプリの広告などで見ますけど。大体は、胸の小さい事がフラれた理由の本質ではない場合な気がします。多くの人間は、対人関係の問題を解決しようとする時、全てを伝えることはしません、めんどくさいし、伝えるための言葉を持ち合わせていないことが多いからでしょうか。嘘を伝えて解決を図ることも多いです。

 

 さてこんにちは、俺です。タイトルは常温の板チョコが超好きな俺が、嫌いだったはずの冷えた板チョコに浮気しそうになった記念です。突然ですが、みなさんは、なぜ勉強をしなくてはいけないか、納得してから勉強を始めた記憶がありますか? 恐らく、大抵の人は納得などしなくていい と、思考を停止して勉強をしたか、あるいは、納得できずに勉強をしなかったでしょう。「なぜやらなくてはいけないのか」について、納得するような説明など、多くの、我が子を一番に愛する親ですらできなかったことと言えるでしょう。

 今回伝えたいのは、誰かに向けてはもちろん、自分自身に対しても、伝えることを怠惰にしすぎではないかということ。結論から言うならば、相手も自分も、納得させなきゃ健康的に動くわけないんだから、納得させるためには逃げずに、手を抜かずに全て言っちゃうべきなんじゃないの ってことだ。(健康的 というのは、「真の意味」での世界平和かどうかというオリジナルの尺度)

 

 今回のきっかけになった、「子どもが勉強をしません」という、よくある親のお悩みを例にあげる。本当に人を動かしたいなら、AからZまで、自分がどうしてそうして欲しいのか伝え、納得させるべきじゃないのかと思った。

自分が勉強をやらなかったのはなぜか、なぜやらなければいけないのか、どうして1〜100まで伝えないのか。それは、自分がそうして伝えられなかったからかも知れない。自分もやらなかったのにどうして、自分の子どもは、勉強しろと言うだけでやってくれると信じてしまう?? きちんと「親の自分が納得する」まで、親の自分を高めるためにも、子どもと話し合うべきではないか。子どもに伝える前には当然、自分と向き合い、本当にそれがやる必要のあったことなのか、じっくり考える必要が当然ある と。もしかすると、求められるべき「勉強」の正体が、今までとは180度変わるかも知れない。しなくていい という結論すらありうるが、そうして出る結論は健康的なものではないだろうか。固定概念に段々と価値がなくなってきている今、自分なりに追求した答えを持たないと、いずれ気付かぬ内に死んでいるぜ。

どうして欲しいのかがフワフワしたものなら、当然やってもらえるわけがない。伝えることをおざなりにしすぎている という意味での怠惰は、日常に溢れているんじゃないのかと。俺も含めて皆、言う必要のあることが言えてなすぎるんじゃないか?有名な言葉で言うところの、「隣人を愛しなさい」よと。

 

 今回は、「言う必要のある」美学の話であって、「あえて言わない」美学の話は、これはここでは触れない。誰でも読めるこのブログだ、嫌いな奴にも伝えたいのはここまでだ。