理想のあの娘、宇宙の子

完全に個人的なものですので、不快に感じる場合があります。「そもそも匿名な時点で、論としての効力はない」という前提の元、主に未来の自分(そして同志)のために書いているものです。攻撃・思想の押し付けをする意図はありません。

『こんだけ寒けりゃ、そりゃお金も落とすわ!!』

 お金を30000円落としました。取り戻すために働くことを、すごく面倒臭く思っている。それ以外の感情はびっくりするほどない。たまに、諦めがよすぎる自分を物足りなく感じる時がある。まあこれも、恐怖と戦うための自分なりの答えだったりするんだが。精神的には大人なのかもしれないですね。


 今年一年を振り返ってみようとか思ったんだが、面倒臭い。いわゆる本厄だったらしいんだが、最初から最後まで良くないことばかりだ。おそらく、本厄ってのは「そこまでの人生でなあなあにしてきた、よくないまま放置してきたこと全てのツケを清算するための年」ってことなのではなかろうか。そういう経緯で作られた指標というか、目安なら個人的にはとてもスッと落ちる。昔の人はよく考えたもんだ。

「完璧になんてできるはずがない」なんて言いたくはないし、思い込みたくもないことだが。高校生くらいからずっと俺の根にあったガンはこれだった。完璧にやろうとして、なにも動き出せなかった。変えたかったのに動き出せなかったのは、今になってもまだプライド()があり、そして怠けていたからだろう。このままではやばいと言いながら、現実から目を背け続けていた。

 俺はプライド()は一度捨てなきゃいけないとわかっていたはずだった。ここでいうプライド()というのはそれまでの自分の常識だったり、得にならないこだわりのことを言っている。それを捨てて、恐怖の正体を確と見つめ戦わなければならない。そうして得たものが真のプライドになる と。そんなことはわかっていたはずだし、「労働」においては実践できていたといってもいいと思っている(時間通りに出勤するのは苦手 ん…やめておこう)。「労働」は受動的なもので、殴りかかってきたヤツに殴り返すだけだから。
 しかし「仕事」については、全然だめだった。ここでいう「仕事」は、自分がやるべきだと思うこと・やりたいこと、俺という個唯一の役割みたいな意味。俺から殴りかかることが求められている。

仕事をはじめるのが、そして本気で取り掛かるのが怖かった。失敗するのが怖かったからだ。仕事は「例のあの人」みたいな存在だった。目を背け、逃げ続けた。そうして時間を無駄にし続けた。怠惰は極まり、漠然と「このままじゃダメだ」と垂れ流し続けた。

 不思議なことだ、分かっていたはずだ。失うものが何もない なんでもできる だなんて。そもそもやらなきゃ何も生まれない。分かっていたはずなんだけどね。怠惰の権化みたいな生活を極め、仕事への恐怖よりこのまま死ぬことへの恐怖が優ったようだ。

11月の頭だ、帯広のじいちゃんの家に行った。病気をしたからお見舞いとして、三年ぶりくらいに会いに行った。最近は、手稲のばあちゃんの家に、これも一年ぶりくらいに行った。どちらもその歳にしては驚くほど健在だったが、確実な衰えを感じた。誤解があるかもしれないが、それを誇らしく思う気持ちがある。人間として生を全うした重みみたいなものを前に、自分をひどく恥ずかしく感じた。「あの娘」に手をのばさなければ、と思った。

 今年一年は散々だった。序盤から終盤まで、今も、目を背けてきた奴らが一斉に俺を取り囲み続けてる。目を背けた先に敵がいるんだもの、逃げ場なんてない。生き残るためにもがくしかない。

結果的に一歩踏み出せたからそこだけは救いだ。今、もう何も無駄な期待はしていないが、手をのばし続ければ必ず届くと信じられている。のばしても、のばさなくても死ぬなら、のばした方が恐れる気持ちも紛れるだろう。届かなかったとしても、なにかには触るだろう。そうしていつかきっと、真のプライドに手が届くと信じている。

 

 過去の自分へ、声をかけようがない。今もダサいままだ、この先どうなれるのか。きっかけとして、ブログなんていうたまたまピタッとはまるノルマを見つけられて、運が良かった。時期を待てなんて言いたくない、手を伸ばせ。めっちゃ面倒くさいけど、戦い続けたい。と、今は思っている。