理想のあの娘、宇宙の子

完全に個人的なものですので、不快に感じる場合があります。「そもそも匿名な時点で、論としての効力はない」という前提の元、主に未来の自分(そして同志)のために書いているものです。攻撃・思想の押し付けをする意図はありません。

そして

美味い飯。美味い飯を食った。美味い。家で食べていたなら、安心感でか幸福感でか、はたまた純粋な感動か、涙を流していたかもしれない。美味かった。美味い飯は最高だ。あの食事のために、生きているんだと思う。

 

 しかし同時に、もっと努力し、苦しんだ結果、もっと良い気持ちであれを食べられたなら、どう感じられるのだろうとも思う。今日だって、そんなに悪くなかったとは思う。辛かった。だからこそ、もっと頑張ったならもっと美味かったんじゃないかと思う。「俺が求める究極の安堵、究極の食事は、食事そのものはもちろんのこと、そこにたどり着く経緯こそが重要なんだ」 などと考えているこの瞬間である。

 法律の成り立ち。様々な学説をみて、結果が全てだ、うるせえごちゃごちゃ などと思っていたのは去年か?一昨年か。これは確かにその通りだと、そういう側面は確かにあると思う。(あの時の俺、いやあの空間全体が、法律を学ぶほどの興味も覚悟もなかったなと思う) しかし、結果にいきなりワープするなんてことはない。過程がなきゃ、結果はない。当たり前だ。どんなに革新的な思いつきがあっても、それを形にする技術がなきゃ、形にはできない。魂と、器。両方が必要。(法律の成り立ちから、問題を解決していくプロセスを学ぶ とポジティブに考えてみてくれ法学部諸君。まあ勉強なんて、問題解決法を見つけるための練習みたいなもんだな)

 

まとめると、過程がなきゃ結果はない。結果は全て、これは正しいし、過程が全て、これも正しい。定義の違いだ。 的な?

 

 

まあここまではどうでも良い、ほぼ適当に書いた。今、俺が言いたいのは美味い飯が食いたいということだけ。精神的スパイスがこの世のものとは思えない味を演出する瞬間を魂に刻みたい。いつか、心の底から安堵したい。