それでも過去は塗り替えるためにある、超えろ、超えるしかない、どうしたって、超えるしかないんだ。
どうしたって、超えるしかないんだぞ
それでも過去は塗り替えるためにある、超えろ、超えるしかない、どうしたって、超えるしかないんだ。
どうしたって、超えるしかないんだぞ
具体的な未来だと考えていたものが、全然具体的じゃなかったことにも気づいて、具体的なのはこれですよっていう、どちらかといえばいい方向の未来が不意に現れ、どんどん現れ、逆に想像付かなくなったんだろうか?拍子抜けしている?面食らった??どれも違うな、、
未来をちゃんと捉えるところからだな、そうしないとどうしようもない 今を大切にしようもない そういうことか?
手放しで享受出来るほど、日頃の行いの良さに自信がない 出来すぎている!
現実味がなすぎるからか?
なぜだ、こうにもやる気が湧き上がらないのは。なにを成し遂げた気でいる?あるいは、なにを諦めてしまったのか。疲れたのか、疲れた気でいるのか、疲れた気でいたいのか。
苦しみの果てにある苦しみをどうにか美味しく食べられたらいい ということか… 苦しみの度合いが大きくなったなら、進んでいる証だと思うしかない。よく苦しみに向かっていけてるよ。今更、なんて低いレベルだろうか、案外そんなことはないのかもしれない。
負けるんじゃないよ と。
あるいはおれは常に投げかけ続けている 無言でさえ意味がある、 無為こそ最大の暴力
などといったところ
これまで通り、愛していただけるように頑張りますので、どうかよろしくお願いします。
新年明けてから、はじめてベランダに出たら謎のビニール袋が。中には死にかけの花がおりました。ナニカからのプレゼントでしょうか?よく分かりませんが、とりあえずダンボールで囲ってきたところです。
投げて入る高さじゃないんで、まあどっかの部屋から風が吹いたか、投げ入れられたかってところでしょうが… 春になり花をつけるんでしょうかね。まあそんなところです。
ぁあ〜〜腹立つな。全くうまく言えなかったなこれ。しかしここらで休憩が終わりなんだ、じゃあまた気が向いた時に。
始まるまでなんのワクワクもなく。当日も、家族とのパーティは楽しかったけど子どもの頃のような純粋な「浮かれ」はなく。なのに何故だ、今、妙な寂しさがある。終わっちまったなぁ〜…。また来年か。昨日までの俺よ、良い気分で25を迎えたかどうかは分からないが…割とやってくれたな。今年終わるまであと5日しかないんだけどよ💢⁉️
昨日までの俺と今日の俺とは、肉体的にはもちろん、時間の流れをみても別に存在しているというこの基準にとらわれ過ぎではないかということ。寝て翌日、悪い意味で新しい自分に切り替えすぎ、逃避として睡眠に頼りすぎではないかと。やらなければならない事をやらなきゃいけない感情の煩わしさを、新しい自分も引き継がなければいけないよ、なにも切り替わりはしないよ、全ては繋がっている。新しい自分なんてないぜ、死ぬまで、この自分だよと。そこのお前、苦しいだろうが、俺だって、あの娘だって同じだぜ。どう考えるかって事だ。
大抵の人は過去・現在・未来が分かれているのが真実だと思っているはずだが。この見方にとらわれすぎて、『全ては同時に存在している』などといきなり言ってもなかなか受け入れられないことと思う。そう、過去のあの地点、未来のあの地点はそれぞれの地点で存在しているように、現在のこの地点にもある。
過去、現在のこの瞬間と、未来。これらは全て連関し繋がっている。同時にこの瞬間に存在している。人はよく、来世に期待 などと言うが、今を変えられない奴に来世がどうして変えられるというのか? 未来とは現在の選択や結果の収束のこと、即ち、今この瞬間のことだと言えると考えられないだろうか。過去の選択の結果が現在なのだから、過去を塗り替えることも、そのまま打ちひしがれるのも現在の自分だ。全ては現在なんだ。クワイガンが言った、この瞬間に集中しろとはそういう要素のことではないか?この地点が永遠に続いてきたし、この先も続くんだ。何度も繰り返す繰り返す繰り返す繰り返す。これを器用に捉えたら良い、昨日も明日も今日になるといえば伝わるだろうか。
今は過去だし、未来なのだという事、うまく言えた気はしないが、まあ聞き流してくれてもいいが、面白い見方ではあると思う。
そう、そして、この見方に立ち、既に俺は未来を手にしていることに気付いた。なんてことはなかった。全てはもうここにある。
あ、クリスマスは昨日だぞ、理解できてるか?これは自分の捉え方の話にすぎないからな。全ては自分次第。